春田野

名古屋市港区春田野の歴史

灯篭

名古屋市港区の北西部に位置する春田野。春田野は新田開発により開拓工事でできた地域です。 名古屋市港区春田野の歴史について掘り下げていきます。

【西福田新田】

西福田新田は三代将軍家光の1643年頃、鬼頭勘兵衛景義によって干拓されました。 鬼頭勘兵衛景義が干拓をしたのはここだけではなく、尾張や美濃であわせて27もの村を、 二万二千余石にも上る土地を干拓しました。 その景義の子孫は代々ここに住み、ここにあった屋敷は勘兵衛屋敷と呼ばれました。 この屋敷址の敷地内には1959年伊勢湾台風によって亡くなられた方の慰霊碑があります。

【春田野神明社】

福田新田の干拓工事では当初、堤防が決壊したり遭難や事故が相継ぎました。 そこで景清が伊勢神宮の分霊を1640年に祀ったのが春田野神明社です。 すると事故がなくなり、難工事もこなすことができたとのことです。 かつての本殿は勘兵衛屋敷とともに戦争中の空襲で焼失しており、今あるのは1989年に 新築再建されたものです。

【七反野地蔵堂】

福田新田の干拓は東は庄内川から、西は戸田川から行われ、両側に堤防を作ってそれぞれ 土を埋めていきました。 そして両側からの埋め立て工事がぶつかった場所に、工事が完了した場所であることを示す 「福田新田締切の地」という記念碑とお地蔵さまが建っています。 七反野地蔵堂は工事中に不慮の事故で亡くなった人々を弔うためと、新田の平安を願って 祀られたものです。 干拓工事が終わると景清は1640年、締切の地の北側に国之常立神を祀りました。 これは地の神様で、新田が永遠に安泰であるようにとの願いを込めたものです。 また相殿には熱田大神も祀られています。 景清は神社の祭礼を維持するため、宮田七反歩をこの神社に附属させます。 そのころから七反野神明社と呼ばれるようになり、地名も七反野となりました。 空襲により一度焼失しましたが、再建され現在も地名に名を残しています。 また七反野神明社の東には大山積神を祀る山神社があります。 こちらは五穀豊穣、商売繁盛の神様ですが、やはり戦災で焼け戦後に再興されています。